なぜ西サハラは安定しない? 割れる国家承認の背後を追います

西サハラ
Why Western Sahara is not stable? I will follow behind the cracking state approval 西サハラ

40年以上に渡って統治体制が不安定な西サハラの問題を取り上げます。

2019年に横浜で第7回アフリカ開発会議(TICAD7)が開かれますが、これまでもアフリカ連合(AU)が承認する独立国家(勢力)と、実効支配を続けるモロッコとの間で混乱が生じてきました。

なぜ、安定しないのか。スペイン植民地時代の終わりから、ポリサリオ戦線の誕生、モロッコが築いた砂の壁、アルジェリアの動き、国連の住民投票の失敗など、一つ一つ紐解いて参ります。

西サハラの基本情報

まず始めに、西サハラについてのごく基本的な情報から書いてみます。

面積

約25万平方キロメートル。日本と比較すると、本州に近いサイズです。

アフリカの隣接国で位置関係を示すと下記のようになります。

アフリカの隣接国

  • 北側
    モロッコ
    (西サハラに対し実効支配を強める)
  • 東側
    アルジェリア
    (独立勢力を支援)
  • 南側
    モーリタニア
    (西サハラから撤退)

人口

西サハラ地域内には、推定で約10万人が暮らしています。気温が非常に高い上、ほとんどが砂漠に覆われている国なので、人口は多くありません。

住民はアラブ人とベルベル人。8世紀ごろからイスラム教が広がりました。

ところが、西サハラの独立勢力は、東に隣接するアルジェリアの難民キャンプで、17万人から20万人程度の人々が生活していると発表しています。西サハラの地域内で10万人ですから、この数は非常に多いです。

資源

ほぼ全土が砂漠地帯ですが、豊富な鉱物資源(リン鉱石など)と、良好な漁場に恵まれています。モロッコがこの地の支配に力をいれるのも、この資源の存在が大きいと言われています。

統治

詳細は後述しますが、実効支配を続ける「モロッコ」と、独立を訴える「ポリサリオ戦線」が対立しています。

なぜこうなった?時系列で分析

統治関係が複雑で多くの難民が生まれています。なぜ、このような状況になっているのか。宗主国だったスペインの撤退前後から振り返り、明らかにしていきます。

1884年:スペインの植民地に

ヨーロッパによるアフリカ分割統治の時代、モロッコはフランスの、西サハラはスペインの植民地という状態にありました。

1976年:モロッコとモーリタニアで分割統治

西サハラからスペインが撤退する前に、モロッコとモーリタニアの間で、この地を分割・併合するという密約がありました。

特にモロッコは、撤退前の1975年11月、西サハラの領有をアピールするため、35万人を動員して、「緑の行進」という大イベントを行っています。

実際に、スペイン撤退後、北部はモロッコ、南部はモーリタニアに分割統治されました。

同年:サハラ・アラブ民主共和国樹立

1976年、西サハラの独立を求める地元の住民解放組織「ポリサリオ戦線」が、「サハラ・アラブ民主共和国」の樹立を宣言します。

サハラ・アラブ民主共和国とは

 1976年2月に、後述するポリサリオ戦線が樹立を宣言している国です。
 社会主義を基礎とするイスラム国家を目指すとして創設されました。多い時は世界の約70ヶ国から国家としての承認を受けていました。しかし、その後、撤回している国も多いのが実情です。
 日本は未承認ですが、アフリカ連合(AU)が加盟を認めているため、そのくい違いがアフリカ開発をめぐって、時々表面化します。

ポリサリオ戦線とは

 西サハラの独立を目指す地元の住民組織で1973年5月に結成されています。
 アルジェリアの支援を受けて、同国西部にあるティンドゥーフを拠点に、モロッコやモーリタニアに対する武力闘争を開始しました。

1979年8月:モーリタニアが領有を放棄、モロッコが「砂の壁」建設

モーリタニアがの西サハラ南部の領有を放棄しました。しかし、そこにモロッコが進駐し、西サハラ全域の領有を主張しました。当然、モロッコとポリサリオ戦線との戦闘が激化します。

モロッコは西サハラの主要部分を押さえ、ポリサリオ戦線が活動する砂漠地帯との間に「砂の壁」と呼ばれる防御壁を建設して、住民の往来を遮断しました。

1984年:アフリカ統一機構(OAU)の承認問題始まる

アフリカ連合(AU)の前進であるアフリカ統一機構(OAU)が、サハラ・アラブ民主共和国の加盟を承認しました。

しかし、モロッコは西サハラの領有権を主張しているため、この承認に抗議し、アフリカ統一機構(OAU)を脱退してしまいます。

ここから国際組織を交えて両者の関係が、こじれていくことになります。サハラ・アラブ民主共和国は、アフリカ連合(アフリカ統一機構)の承認を旗印として自分たちの国家としての地位を主張します。一方モロッコはアフリカとヨーロッパをつなぐ要衝にありながら、国際組織を脱退してまで、西サハラの領有権を主張していくことになります。

モロッコは後にアフリカ連合(AU)に再加盟しますが、このことをきっかけに、長い間アフリカ連合との関係で孤立することになります。

1988年-1991年:国連仲介で停戦 ⇒ 住民投票の失敗

この事態に国連が仲介に入ります。一度は、独立かモロッコへの併合かを問う住民投票の実施で、両者は合意にこぎつけました。

また、1991年には国連調停によるモロッコとポリサリオ戦線の停戦も発効しました。住民投票実施のため、国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)が展開します。

しかし、「西サハラの基本情報」で書きました通り、この地域は人口が多くないのです。モロッコは西サハラに大量の入植を実施しました。その結果、住民投票の投票資格をめぐって対立が始まります。ポリサリオ戦線を支援するアルジェリアとモロッコの対立も表面化し始めました。

結局、住民投票は実現しませんでした。

国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)とは

 1991年に創設された住民投票の準備と停戦監視を任務とする国連組織。
 国連提案の住民投票案で、モロッコとポリサリオ戦線が合意に至ったことから誕生し、当初は軍事オブザーバーも含めて3000人程度が派遣されていた。しかし、結果が出なかったことから、現在は10分の1以下に縮小されている。

独立か領有かの問題は、世界中で紛争の源になっています。「住民投票」という民主的な解決策に対して、「入植」という手法で人口の多い方の勢力が対抗することがあります。投票資格というものをどう考えるかは、民主主義の根幹に関わります。

なお、入植が大きなテーマとなっている問題で、アジアではチベットと中国の関係が挙げられます。参考までにお読み頂ければ幸いです。

参考記事:チベットと中国

2007年4月:モロッコが自治権付与案を国連に提出

住民投票が、資格をめぐる問題で頓挫していました。モロッコはその代案として、モロッコ主権の下で西サハラに自治権を与えるという方針を、国連に提案します。

これに対し、国連の安全保障理事会は、モロッコとポリサリオ戦線に前提条件なして交渉に入るよう求める決議を全会一致で採択します。

2007年6月から2008年3月まで、両者の間で計4回の直接交渉が行われましたが、こちらも中断してしまいます。

2012年2月:ポリサリオ戦線、停戦破棄の可能性示唆

ポリサリオ戦線が、事態に進展がなければ、軍事闘争を再開すると警告します。しかし、モロッコのモハメド国王は、「自治権の発議」が最大の譲歩であるとして、溝が埋まりません。

2017年1月:アフリカ連合(AU)がモロッコ加盟を承認

アフリカ連合(AU)がモロッコの加盟を承認しました。モロッコはこれまでアフリカ諸国で唯一の非加盟国でした。前身であるアフリカ統一機構(OAU)の脱退から、実に32年ぶりの復帰となります。

アフリカ連合には、サハラ・アラブ民主共和国が加盟しています。モロッコは、その領土である西サハラの領有権を主張しています。この両者が加盟することに慎重論もあったようですが、孤立解消を優先する形となりました。

なお、経済影響力に関して、アフリカ内部でも競争があります。大国ナイジェリアが、ヨーロッパと近い位置を持つモロッコが参戦することを、好ましく思っていなかったという話もあります。西サハラというテーマを抱えながら、アフリカ連合に再加盟したモロッコが、今後どのような経済力をもっていくのか注目していたいと思います。

ところで、ナイジェリアはアフリカの大国ですが、やはり様々な問題を抱えています。こちらでまとめていますので、よろしければご覧ください。

参考記事:大国ナイジェリアの抱えるテーマ

アフリカ開発会議(TICAD)をめぐる動き

アフリカ開発会議(TICAD)の「T」は「東京」の頭文字で、これは日本が主催するアフリカの開発をテーマとした国際会議です 。

2019年8月には横浜市で第7回アフリカ開発会議(TICAD7)が開かれる予定です。これまでの西サハラとアフリカ開発会議をめぐる動きをまとめてみました。

2013年:第5回アフリカ開発会議(TICAD5)

第5回アフリカ開発会議(TICAD5)に「西サハラ」は招待されていません。サハラ・アラブ民主共和国は独立を宣言して40年近くたっていましたが、日本を含めて未承認の国々がある、ということがその理由です。

サハラ・アラブ民主共和国のアジア担当者が、TICAD参加を訴えて来日していましたが、日本政府の担当者とは面会すら出来ませんでした。

2016年:第6回アフリカ開発会議(TICAD6)

第6回アフリカ開発会議(TICAD6)はケニアのナイロビで開かれました。これが初のアフリカ開催となります。

翌年、この時決められた支援策の進捗状況を確認する閣僚会合が、モザンビークの首都マプトで始まりました。しかし、西サハラが出席を要求して、他国の代表団ともみあいになりました。

会場の入り口前で、まず、モロッコ代表団が西サハラから来た関係者の入場を防ごうと立ちはだかりました。西サハラの関係者は「私たちはアフリカ連合(AU)に加盟している。会場に入れないのはおかしい」と主張。その後、両者はつかみ合いの争いになり、その後、他国の代表団も入り交じっての混乱になりました。

2019年(予定):第7回アフリカ開発会議(TICAD7)に向けて

2018年10月、東京都内で開いたアフリカ開発会議閣僚会合に、西サハラが非公式に参加しました。
 
日本は招待しませんでしたが、西サハラが参加を要求したため、日本政府は苦肉の策をとります。支援国アルジェリアの国籍を持っていることから、アルジェリア代表団として査証を発給したのです。

日本は西サハラを国家として承認していません。しかし、アフリカ連合では長きにわたってその加盟が認められていることから、参加を黙認する格好となりました。2019年夏に開催予定の第7回アフリカ開発会議(TICAD7)でどのような形になるのかが注目されます。

気になるイランとの国交断絶

西サハラから多くの人々がアルジェリアに逃れ、難民として暮しています。たいへんな酷暑の中で、食料も教育も十分ではありません。アフリカの開発や貧困撲滅を考えれば、彼らの言葉に耳を傾けることは重要です。

しかし、モロッコの西サハラに関する厳しい対応は、40年たった今でも変わっていません。2018年に、モロッコはイランとの国交を断絶しました。イランが、ポリサリオ戦線を支援し武器供与を行っている、というのが理由です。

イラン外務省はこれを「事実無根」と否定しています。そればかりか、モロッコがイランに敵対する「米国、イスラエル、サウジアラビアの圧力に屈した」と批判しました。

イランと親米アラブ諸国との対立に、西サハラが巻き込まれた可能性は否定できません。しかし、モロッコとの外交には、常に西サハラというテーマがつきまといます

まとめと考察

なぜ、西サハラは40年以上に渡って統治体制が安定せず、多くの難民と貧困が発生しているのか。ポイントになりそうなところをまとめてみます。

  • 植民地時代が終わる時、次に誰が治めていくのか、明確にされなかった。
  • 北隣モロッコと南隣モーリタニアが領有を主張する一方、地元の独立勢力を東隣アルジェリアが支援する状況になった。
  • アフリカ統一機構(今のアフリカ連合)が独立国家の加盟を承認。モロッコが同機構を脱退。国際機関を含めて海外からの国家承認が割れた。
  • 「国連仲介の住民投票」策に対し、モロッコが「入植」策で対抗。住民投票失敗。(西サハラは砂漠地帯で人口が少ない)
  • モロッコがアフリカ連合に復帰するも、イスラム社会は一枚岩ではない。(親米、反米の両方が存在する)

40年の間、話がこじれにこじれて、問題解決の糸口が見えなくなっています。

日本が西サハラ未承認でありながら、アフリカ開発会議(TICAD)の閣僚会合において、アルジェリア代表団として査証を発給したことは評価されていよいことだと考えます。この地で苦しむ人々にとってみれば、アフリカ外でも現状を訴え、難民救済の道を探ることは死活問題です。

ただ、モロッコがアフリカ連合に復帰しました。ナイジェリアが警戒しているように、この国は「経済影響力を持つアフリカの国」になっていく可能性があります。現在、西サハラはそのモロッコに実効支配されているわけですが、アルジェリアに住む難民の帰還は可能なのか、独立勢力を支援してきたアルジェリアはどう動くのか、注目していたいと存じます。

終/ なぜ西サハラは安定しない? 割れる国家承認の背後を追います

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